深緑に溢れた地。
この森に人が訪れることはまずなかった。
人里からは離れていたし、なにより、森には多くの魔物が生息しているからだ。
それは昔も今も変わらない。
――にも関わらず、そこには颯爽と歩く人影があった。
腰まで伸びた白銀の髪を揺らし、長い足を迷い無く進める長身の美丈夫。
魔物たちは息を潜め、その男が通り過ぎるのを黙って見送っていた。
本能的にわかっていたからだ。
男に立ち向かっても、己の力では爪も牙も届かないことを。
随分と森の奥深くまで歩みを進めた男はふと空を仰ぎ見た。
しかし視界に映るのは空を覆う緑。
木漏れ日が揺れ、影が揺れる。
「……何をしている」
男は静かに、空に向かって声を響かせた。
「バレたか」
緑溢れる空から男の呼び掛けに応えが返ってきた刹那、ストンと男の目の前に青年が落ちてきた。
しかし、一見すると(顔立ちが良いのを除けば)どこにでもいる青年にしか見えない彼のその姿は、明らかに普通の人とは違った。
艶やかな黒髪の生えた頭部から伸びた二本の赤い角。
「魔王……」
魔王と呼ばれた青年はケラケラと笑った。
「なんだ、つれないな。名は呼んでくれないのか?」
「……」
黙り込んだ男に仕方ないなとでも言うように嘆息すると、魔王は一言呟いた。
「――散れ」
小さくとも、鋭い刃のような一声に一瞬で周囲に身を潜めていた魔物達の気配が残らず消えた。
「これでいいか?」
にやりと口端を上げた魔王に男は一つ息を吐いた。
「それはこちらの台詞だ。人と親しくしているところを見られたら困るだろう」
「先代の友人のアンタ相手に今更だって」
ふと、魔王はケラケラと笑うのを止め、改めて男に向き直った。
「……久しぶりだな、デューク」
ふわりと笑んだ魔王に、デュークは幻でも見ているかのよう惚けた声で応えた。
「ユーリ……」
ユーリは無造作に距離を詰め、デュークの背に腕を回した。
「悪いな、呼び出して」
「それは構わないが……どうした」
急な会合だった。
たった一言、「来てくれ」という伝言をデュークが顔馴染みの使い魔から受け取ったのが昨夜。
あまりにも突然で、不明瞭な伝言。
今まで一度も使いを寄越すことのなかったユーリからのそれには嫌な胸騒ぎしかしなかった。
「な、キスしてくれよ」
回した腕に込める力をほんの少し強める。
「……お前からせがむとは珍しい」
先からのユーリらしからぬ、わかりやすい甘えた態度に訝しむも、デュークは望みを叶えてやった。
軽く唇を合わせ、食む。
戯れのように何度も交わされるそれが、ふと止んだ。
ほんの僅かな隙間ができ、触れるか触れないかの位置で唇が動いた。
「――これで最期だから」
「何?」
トンっ。
不意に胸を軽く押されデュークはよろめいた。
顔を上げた時には、もうそこには誰も居なかった。
「自分で呼び出しておいてヒデェ言い方だけどよ、もうここには来るなよ」
ザワザワと木々が揺れる音に混じりユーリの声が反響する。
――幻術だ。
わかってはいても、デュークにはどうすることもできなかった。
「待て、ユーリ」
デュークは何処に居るかもわからないユーリに呼び掛けたが、それに応えられることはなかった。
「来ても入れてやんねぇから」
カラカラと笑い声が聞こえるのに、その声はなにかもの寂しげに聞こえる。
「ユーリ」
「いろいろさ、言いてぇ事もあるけど、言わないどく」
「何の話だ」
焦燥に駆られ、デュークは言葉を僅かに荒げた。
「ユーリ、訳を言え!」
自然と早くなる言葉を空に向かって投げる。
返ってきたのは、紛れもなく現実だった。
「――勇者が来る」
「っ!」
来るべく時が来た。
それだけ。
ただ、それだけだった。
「じゃあな」
見えなくとも、確かに感じていた気配が遠ざかる。
「待てっ!」
叫んだところで姿は見えないし、腕は宙を空振るだけでなにも捕らえられない。
「もう、来るなよ」
「ユーリっ!!」
――三度目の忠告は無かった。
再び辺りに幾つもの雑多な気配が生じ始める。
デュークは迷いなく大地を蹴った。
しかし、間もなく開けた視界に愕然とする。
見覚えのある、獣道。
森を目指して来た自分が通った、あの森に行くときにはいつも通っている道。
先まで居た場所にたどり着くため使った時間の、半分も経たぬ内に戻ってきている。
一度と振り向いた覚えがないのにも関わらず、森の入り口に立っている。
――幻術だ。
わかっている。
わかってはいても、デュークにはどうすることもできなかった。
「良かったの?これで……」
「ああ。気ぃ抜くなよ、リタ」
リタと呼ばれたのは背に羽、臀部に尻尾を持った悪魔の少女。
身長のせいで小悪魔と小物扱いされることも多々あるが、その魔力にはどの魔物から敬服されている。
魔王にとっては数少ない、心から信頼できる者の一人。
「わかってるわよ。アイツが入ってこれないように回せばいいんでしょ?そう高度な魔術じゃないから一回組み立てれば平気」
「ふーん」
これでよしっ。
最後の術式を組み入れるとリタは振り向き魔王に向き直った。
「アンタ、ほんっと魔術に関してからきしね」
魔王のくせにと続く台詞は恒例で、魔王は軽く流した。
「悪かったな」
「……別に」
「どうした?」
ふと俯いたリタはポツリと溢す。
「……ホントに、いいの?」
「……」
一度溢れた思いは次々と流れ出た。
「まだ、時間はあるし、もう少しくらいいいんじゃないの?それに、もしかしたら、アイツがなんか解決策持ってるかもしんないわよ?以前がそうだったんでしょ?まぁ、アレは失敗だけど、もしかしたら別の妙案があるかもしれない。だいたいこうなったのはアイツの責任でもあるんじゃないの?そりゃ、アンタが頼りないってのもあるわよ、けど、アンタ一人で……」
「リタ」
「……ごめん」
再び深く俯いたリタに魔王は努めて軽い調子で言った。
「オレだって、できる限り足掻くつもりだぜ?」
でも、
「守りたいものが全部守れる。――紛い物の魔王でもそれができるなら文句はないとも思ってるだけで」
「――っバカ!」
力一杯叫ぶと、そのままリタは走り去った。
「……つーか、リタってオレとデュークの事反対してなかったか?」
「あなたのしょげてる顔なんか見たくないって言う、彼女なりの励ましよ」
呟いた独り言に応じられ、魔王は少なからず驚いたがそれを表に出すことはなかった。
「ジュディ」
カツリとヒールを鳴らして現れたのは背に羽を持った淫魔のジュディス。
そのしなやかかつ豊満な肢体は流石と言うべきなのか。
「お帰りなさい」
にこりと笑う彼女は魔王と並んだ。
「いつ見てもいい女だな」
「あら、じゃあ子作りする?」
「遠慮しとく」
「まぁ、残念」
恒例の軽口を言い合い、くすくすと笑うジュディスはふとその顔を引き締めた。
「私も、最後に聞かせてもらうわ。――これでいいの?」
「……ああ」
「そう」
若干、悲しげに眉根を下げたジュディスに、魔王は不思議そうに問う。
「お前も心配してくれてんのか?あんなに反対してたのに」
リタもジュディスも、現魔王に友好的な魔族。
だからこそだろうが、これ以上内部に敵を作らぬためにも人――デュークに会うなと繰返し重ねてきていた。
「理由はあの子と一緒よ。……魔族はね、そういうものなの」
ジュディスは何かを宙に思い浮かべているのか、空をぼんやりと仰ぎながら言った。
「力のあるものに惹かれ、焦がれて……。圧倒的な力の前に伏すがある種の快感なのね」
だからとジュディスは続ける。
「あなたには誰よりも幸せになって欲しいと願い、行動する。あなたに命令されれば、それはそれであなたの願いを叶え、望みを叶えることなのだからそれで満たされるの。けれど……」
ふと向けられた視線は、ただ魔王に向けられていた。
「私たちは、あなたの別の幸せを知っているから」
魔王は笑って応えた。
「ははっ、……なるほどねぇ」
「ふふっ、だからいいのよ気にしなくて。私のことも、あの子もことも」
「……サンキュ」
「どういたしまして」
それで?
ジュディスは挑発的に言う。
「私へは、どんな命をくださるの魔王様?」
魔王は単に告げた。
自分の願いを。
「死ぬな」
リタにも言っとけと魔王は残して、ジュディスと別れた。